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「いいね!」の価値は「いいね!」以上でも以下でもない話


ちょこちょこと色んな人から「みんな最近かんたんに『いいね!』ってしてるけど、軽すぎるよね。本当にいいと思ってないだろうに」というような意見を聞くことがあり、自分はその度に昔いわれた「メールに絵文字も顔文字もない(>_<) 怒ってる???(´・_・`)」という女の子の言葉を思い出す。


コミュニケーションは難しい。部屋の中に閉じこもって必要最低限をネットだけを通じて生きていきたいと願うくらいに難しい。
とはいえ、ネット上のコミュニケーションはリアルと同じくらい相当に難しい。その大きな理由は「相手の顔がみえないこと」ではないかとおもう。電話が苦手な人の言葉を借りると「自分がどんなに一生懸命しゃべってても相手は実は逆立ちしながらお笑い番組みてるかもしれないと思うとこわい」と近いものがあるのではないだろうか。(それを聞いたときの自分はそんなに気にする人もいるのか!という衝撃と、家で電話するときの大体が寝ころびながら壁に足を寄りかからせる体勢なので心の中で謝罪した)(でもすごく真面目に電話してる)
こちらから何かを発信したとき、相手がどういう顔をしてそれを受け取っているのかがわからないというのは、不安(まちがったことをいってしまっていても訂正がすぐにできない)や、不快(こちらの話を真摯に聞いていないのではないか)に繋がるので、ネットでのコミュニケーションが苦手な人は結構その「顔がみえない」ということがネックになっていることも多かったりもする。
とはいえ、ネットでのコミュニケーションを今更なくすことなんて到底無理だし使った方が便利であることにかわりはないので、そこを解決したい場合にどうするとよいかというと、送られてきた内容に対して受取り手がリアクションをとるのが大事になってくる。
何もリアクション芸人になれという話でなくて、誰かが自分に対して何かを伝えたら何がしかの「あなたの言葉をきちんと受け取りましたよ」というものを返すということだ。それを何回か繰り返すと相手もこちらがどんな風に受け取るかをつかめてきて、その相手に対してネットでのコミュニケーションをとることに対して不安を解消できるようになってくる。


掲示板文化が盛んだったネットでは、コメントにはコメントで返すのが当たり前だった。というかそれしかなかった。mixiにハマり始めた頃、不特定多数ではない仲のよい友達の近況がすぐわかって仲のよい友達のコメントだけがすぐくるとてもとても魅力的なサービスだと感じた。でもそれらをだんだんと億劫に思ってしまうこともあった。ときにはコメントを見たらコメントを残すようにいわれることもあった。
そんなある種のめんどくささを感じてきたところに、その部分を大幅カットしたのが、みなさんご存知Twitterである。Twitterは届ける相手を想定しない、あくまでも「ひとり言」を「近くにいた誰かが聞いていた」ような状態なので、発信するときの気持ちやコメントを見るときの気持ちがすごくラクなようにできている。誰かの顔を気にしなくていいし、誰かのコメントを聞かなかったことにとできるサービス。ただサービスを色んな人が使うにつれて「ひとり言とはいえども反応がもらえるとうれしい」という気持ちが加速して、@をとばしあったりRTしたりフォロワー集めに勤しんだりした。
その勢いにのってFacebookに流れていったところにあったのが究極にシンプルなリアクション「いいね!」だった。
「いいね!」というのは、ボタン一つでリアクションが容易なこと以上に受け取ると嬉しいという、コミュニケーションにおける両者の課題を解決するのにもってこいな機能だった。さらにそこに色気がついたのがLINEのスタンプ、亜種としてPathの感情ボタンのような立ち位置だと考えている。


さて、容易になったコミュニケーションから一転、今回指している「いいね!」の軽さというのは言葉的な問題だ。元々のサービスが英語で「Like!」となっていたとこを日本語で「いいね!」にした担当者のセンスにほれぼれしつつも、軽さ重さの話を持ち出すとガラッと意味が変わってくる。それはAmazonの商品に星をつけるかのような、評価軸としての機能であるかのようだ。
それでその考えがダメだと言っているのではなく、そういう価値観を持つのは自由だとおもう。サービスの機能なんて使うユーザーが自由に使いたいように使えばいいのだから。
ただ「もっと本当にいいと思ったときに『いいね!』しないと」と言うのと「絵文字つけてメールしてほしい」と言われるのは、聞くこちらとしては意味は真逆でもベクトルが同じように感じる。それは要するに自分の想定と違うリアクションで返されるといやだから合わせて、ということだから。
普段自分はかなりの割合で「いいね!」をしているが、いいと思っていないときにしたことはほとんどない。(一部仕事でやるときもあるのでないとは言わない)
なので親しい誰かの発言に対して「いいと思ってないのに押してるんじゃないか」と聞かれたら全力で「NO!」といえる。だってみんないいねとおもうこと投稿してるんだもの。
いいと思う感情の振れ幅なんて人によって違って当たり前だし、振れ幅が大きいからといってむりくり精度をあげる必要なんてない。なぜなら「いいね!」はネットのコミュニケーションのための機能だから。別にそれによって誰かの人生が左右されるわけでも、まして自分の価値観が変わるわけでもないから。「いいね!」はそれ以上もそれ以下でもなく、ただそういうものとして認識するくらいで十分だとおもう。ある日丸ごとFacebookのデータがなくなってしまう可能性だってないわけじゃないのに、そんなとあるサービスの一機能にごにょごにょ言ったって仕方ない。言ってしまえばこのエントリーも書いても書かなくてもどちらでもいいんだけど、ノリで書き始めてみたら長くなってしまった。


さらにもし最初の言が、そもそものリアルの評価軸について「かんたんに物事に対してイイといってはいけない」というような意味であればまた、それは人が人に言うべきことではない。何かをいいと思うか思わないかなんてのは基本的に個々の人生経験の違いでしかないからだ。
毎日「いいね!」を色んな人の投稿におしつけている自分は、それ以上に反応していない投稿がたくさんある。でも自分が「いいね!」してない投稿がいくないわけではなく、自分にとってはふむふむと思うだけであっても別の誰かにはおおおお!となることなんてたくさんあり、そのまた逆も然りである。先日ネイルをしてもらったお店のネイリストさんにWebの仕事をしているといったらFacebookの仕様について色々聞かれ、これこれこんな風になってるみたいですよと伝えたら、ものすごくびっくりしてものすごく喜んでくれた(多少のリップサービスもあるとおもうけど)。自分にしてみたら当たり前なことでも、誰かにとっては別の価値になるということを踏まえれば、誰が何にどんな風にイイと思っても勝手だし、それを横合いから他人がちゃちゃ入れるのは野暮である。もし「もっと世間に厳しい目を持てるようになりたい」と相談されたら初めて「それならば」と話をする流れであれば、とても格好いい考えだと感じる。そういうものではないだろうか。


冒頭にあげたメールに絵文字がないと怒っているように見えるということを言われた後、自分はどうしたかというとその子に対して絵文字とか顔文字とかなるべく入れるようにして返した。趣旨変えしたとかではなく、円滑なコミュニケーションをするのに相手がそれを望むならそれにあわせるのが自分にとって嫌でない範囲だったので合わせるようにした。相手と意思疎通をはかるのに合わせるというのはとても大事なことだからだ。
ただ合わせるといっても嫌なことまで合わせる必要はないということを、両者がわかっておくにこしたことはない。
事例として、あくまでも冗談というかかわいがっているつもりで「バカだなぁ」という人がいた。その人が特にかわいがっている相手には、いつもそういっていた。ただ言われている側はものすごく嫌だと感じていた。ある日、言われていた側が言っていた側に「もうそういうのはやめて」といった。言っていた側は「冗談だしかわいがってるつもりでいってるから気にするな」と返した。そしてどうなったかというと、両者は疎遠になった。この場合、言われていた側が気にしすぎという意見も聞くが、少なくともすでに気にしている事象に対して気にするなというのを、それをことを起こしている本人から言われては逃げ場がない。だから疎遠にするしかなかったのだ。言われていた側は言われている間かなり精神的に参っていたが疎遠になったことでみるみる元気になっていった。実はこの話は言ってた側がイケメンで、言われてた側がかわいい女の子で、イケメンくんは女の子が好きだったという事情もあり、かまいたくてなんやかんや言っていたのだが、まぁ相手に伝わらなければ意味はない。男性諸君が考えている以上に「いじる」という行為を女性は好意的にとらえていないどころかマイナスイメージが高くなる可能性があるので、そこは知っておいて損はないんではないだろうか。



ここまで考えてみて、やっぱりコミュニケーションは難しいと感じると同時に、それ以上にめんどいなぁと思わずにはいられない。誰にも会わずに関わらずに暮らせたらいいのになぁと改めて願う一方で、そう思っているのは相手も同じで、こちらにあわせてくれている部分もたくさんあるのだろうとおもうと、うれしいなとおもえるし、だからこそもう少し人と関わることを投げ出さずにがんばろうと今はおもえる。